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平成29年度町長コラ

町長コラム

●平成30年広報おおえ 3月号より

「雪と文化の世界観光会議」でのUNWTOの歓迎レセプションにお招きいただいて、旧山形県庁の「文翔館」に行った。車を下りて会場入り口へ、目に入る「雪灯籠」の光、映 し出される風情はなかなか素敵だ。耳に入る外国の言葉、中国語、英語……さすがに世界の国連の雪の会議、いろいろな国の方が参加されているようだ。

無言で開会まで30分ほど、壁に背を向けて立ち続けるのも、実にきつい。目だけきょろきょろ、「壁の花」どころか、「壁の老木」だ。大ホールの真ん中には、有名シェフの心を込めたおいしそうな料理が並び香りもいい。目を閉じ、耳もふさぎ、口もチャック、鼻までふさぐわけにはゆくまい、ふさげば救急車だ、「エーイ、誰に遠慮がいるものか」、鼻をふさいで口を開けよう。

「雪国の田舎に行ってみようと決断する時の引き金になっているものは、あなたにとってなんであるか」英語の文法にはまだ少し自信もあるという錯覚が、固くてぶっきらぼうな、裁判官の尋問みたいな「御質問」を隣の外国人にさせていた。通じるかな、駄目かな……外国の方は、微笑みながら、優しい目で私を見ている、通じたな、良かった……。今度は弱い耳の出番、うーんどうなることか、英語の言葉を聞く機会がこのところほとんど無い。「耳慣れ」が完全にやられていて、聞き取る力は5段階で1のレベルだ。答えは……多分ではあるが、次のようなことであった。「楽しいことがあるかないかだ」

楽しさを求めて旅に出る。3月は「人生の旅」の時節でもある。楽しさを求めて、さあ歩んでゆこう若者諸君。

●平成30年広報おおえ 2月号より

「逃げるか、留めるか、闘うか」、春になったら溶けて無くなる雪ではあるが、屋根に乗っかる雪の重さを測るわけにもいかない、つぶれたらと思えば気分も良くない……。雪から、雪を、雪と「逃げるか、留めるか、闘うか」の決断は、けっこう難しい。決断後の雪下ろしも、高所で滑る雪を動かす作業だけに厳しい仕事でもある。降る雪の中で、「あー、今年も水不足にはならないなー」とも思い、一方、「いい加減に、ほどほどにたのむよー」と悲鳴をあげながらも、気がつくとやっぱり今年も屋根に登り、雪と闘うことになった。いかに安全に、いかに綺麗に、効率よく、無駄な力を出さないで、慌てずゆっくりできるか――「雪下ろし芸術論実践講座」の実習ということになる。戦いは正攻法で、真っ正面からの真剣勝負だ。豆腐に包丁を入れるように、ステンレスのスノーダンプで屋根の等高線に沿って横一線の切れ目を入れ、次にダンプの幅分の切れ目を縦に入れてゆけば、20丁分の雪豆腐の完成だ。ペルーの地上絵紋様とまではいかないが、結構美しい。1個分の底にスノーダンプを差し入れ、上に少し浮かせて、屋根の下にゆっくり誘導しながら下ろせば1貫の上がり。徐々に下ろした分の空間が広がり、達成感も相まっていい気分、1年で1回ほどしか味わえない喜びでもある。

闘いは正攻法がいい。脇の甘さを攻めるのは許せても、背後に回るのは許せない。お互い覚悟を決めて闘う正攻法は古今東西の認めるところ、覚悟のない敵を攻めるのは、とりわけ日本では正攻法ではない。ならば雪から、雪を、「逃げるか、留めるか」と 躊躇 ちゅうちょ して闘うのは覚悟の闘いとは言えず、高貴な雪に対して失礼千万、正々堂々の闘いではない。よく観れば、「潔癖な純白さ」で現れてくる雪には、闘うという確たる覚悟と信念が、ずっしりと詰まっているのは間違いないからだ。たかが雪、されど雪、闘う相手に不足なしだ。梅のつぼみが心なしかふくらみを見せている、春はそんなに遠くはない。

●平成29年広報おおえ 12月号より

「大地を讃えよ……」大江中学校で聴かせていただく、体育館に流れる低い音と高い音が調和した「合唱」のハーモニーは、すてきだ。男女それぞれ2つのパートの混声合唱で、4つの音声が組み合わされ重ねられて完成した合唱は、いつもすばらしいと思う。歌い手、聴き手に、共々の感動を与えている。

しばらくぶりにバイオリンの演奏を聴いた。音楽といわれると、ほとんど知識もないし、楽器にも触れないので、語れるものは何もない、と思っている。ただ、聴いて「すてきだなー、気持ちがいいなー」と思うことはよくある。何が何だかさっぱりわからないのもあるが、今回のバイオリンは、今までのとは音が違っていて、同時に2つの音が出ているのではないか、と思った。左手指は肩と顎で支えたバイオリンの4本の弦を、まるで指が細かい点を探すように、目にもとまらぬ速い動きだ。右手は弓を持ち、大草原で駿馬がたてがみ1本1本で風を嗅ぎ取るごとく、天を舞うようにしなやかに動いている。「すごいなー、せまってくるなー」と身を乗り出し聴き入った。

聞けば、演奏していただいた方はブルガリアの天才バイオリニストで、複数の弦で音を出す――「重音奏法」という技法らしい――名手だという。曲目はバッハのシャコンヌ、重音を多く取り入れた曲調らしい。1台のバイオリンの「4本の弦と楓の木箱」と「馬の毛の弓」と「松やに」……それぞれの持ち味を生かして音を生み出す演奏技量、1本の弦だけと思えば、時に2本3本と音を重ねる細やかな弦の「合唱」だ。葬送の音は流れて、遺影が「不揃いの山の形に一筋の光たる道置き残したり」、と語りかけてくるようだ。見渡せば、広くて狭い日本には、いたるところに素晴らしい「合唱のつくり手と聴き手」が満杯だ。

●平成29年広報おおえ 11月号より

昭和38年の左沢高校修学旅行のしおりを友人から預かっている。その1ページに、左沢駅集合5時30分――左沢駅6時23分――山形駅7時15分――福島駅10時21分――上野駅17時41分――東京駅18時10分と書かれていて、上野東京間は「都電」とも記されている。五十余年の半世紀前だ。黒い煙を吐く機関車は、スイッチバックを繰り返し、急峻な峠を喘ぎ喘ぎ越えていたに違いない。東京は遠かった。今は、なんと4時間ほどで、東京に着く。まだ乗っていないが、足を湯につける温泉気分の「足湯列車」もあるらしい。豪華な列車だ。進歩、進化、発展、近代化、豊かさ……「時代」とはなんであろうか。

北海道の友人たちがお越しになった。最上川舟唄と江差追分の「民謡交流」の友人たちだ。詳しい行程は聞いていないが、大江町からバスで酒田市へ、酒田から秋田経由の在来線、新青森で新幹線に乗り換え北海道へ、酒田駅9時35分――北海道木古内16時22分――バスで江差町到着17時30分であったらしい。北海道の入口に近い町なのに……北海道はまだまだ遠い。

夢を見た。夢は覚えているようで思い出せないものがほとんどだが、今回は違っていた。手には緑色の小旗、帽子には赤文字、多くの人がまるでむくどりが空を埋めるように集まっていて、しかも形は平方、整然と静粛にだ。にこやかで晴れやかな表情には、明日への生きる希望があふれんばかりだ。文字には、次のように書かれていた。「日本国の中で、最も早く一本の新幹線を完成させたいのは北海道だ。私たちはその次でいい」。山形への次の新幹線は、できれば、できるように思うけど、日本で2番目のリニア新幹線がふさわしい。夢は大きく。

●平成29年広報おおえ 10月号より

新幹線に乗った。前から2列目で、隣席は空席だった。「彼」の席は1番前で前方は壁だ。発車して間もなく、「彼」は、席の隙間からじーっと私を見ている、ときどきにっこりしながらだ。私も「彼」のにっこりに合わせ、にっこりをつくった。ほどなく「彼」はなんと、席の上まで首を伸ばし、にっこり合戦を求めてきたではないか。山形までは残り2時間余り、にっこりをそうそう作り続けるわけにもいくまい。目をそらし、外の風景に目をやったが、どうも「彼」の目線が気になって、少々きつい。最初の「彼」のにっこりに反応しなければ……いやいや、もはやあとの祭り、ここはじっと我慢、目を窓に固定した。30分ほどたったので、前方に顔を向けると、今度は手を隙間から出し、片目の顔でにっこりだ。私のにっこりを強力に求めているのは、間違いない。「彼」にとっては、二度あることは三度あり、狭くて窮屈な列車の旅、相棒のやじさんきたさんの関係を、完成させたようなにっこりの連続だ。完全無視しかにっこりを防ぐ手だてはない、防げる圧力は……。列車は我が苦しみを笑うかのようで、いつもより揺れもひどい感じだ。

最後のにっこりをにっこり合戦の儀礼として「彼」にプレゼントし、出口の方に逃げるように急いだ。山形駅で下り、私は先頭から5、6番目で改札口を出たあと、感覚が苦痛で消えていたのか、急な「自然の呼び出し」だ。用を済まして、通路に出ると、「彼」がいる。ママに手を引かれ、ズボンの上にオムツパンツの太い白いラインが見え隠れ、今度は手まで振って、にっこりしながら「バイバイ」と確かに言った。ウーン、無視、圧力、まあいいか、もてる男は辛いのだ、と自分に言い聞かせた。「外交」は難しい。にっこりさん、ありがとう。

●平成29年広報おおえ 9月号より

今年の大江町の新成人は76名、成人式はふれあい会館で8月14日、素晴らしい式典であった。凛々しくて、和やか、他人の間違いを許す「大人の風格」を感じさせて、「永遠の真理を求め…進んで行こう大江大江山形大江大江中学」の校歌を忘れていない「成人諸姉兄」との再会の場となった。

式の挨拶で、コンピューターから拾う情報は、「嘘か、本当か」を見極めて読み解くことが大切ではないのか――文字と音声だけで「たった一つの真実」だ、と判断してはいけない――と、老婆心を承知で語らせていただいた。

成人式が終わって職場に戻り、職員に「図書」の2文字の読み方に「ずしょ」があるかどうか、と尋ねたら、「広辞苑」には「としょ」=「ずしょ」と載っている、との「調査報告」であった。さらに自宅で「大漢和辞典」を調べてみても「としょ」=「ずしょ」と読め、「図書一式」の読み方は、「ずしょいっしき」でも正しい、と解した。我がぼんくら貧弱な勘が当たったとはいえ、今さらながら言葉は広くて大きくて、深くて重いので、「常識を疑う一時の立ち止まり」を求めているのかもしれない。「図書」の読みは、「たった一つの真実=としょ」ではなかったし、「永遠の真理」でもなかった。

成人式に参加された全ての方々に、心からお詫び申し上げ、訂正させていただきたい。「としょ」=「ずしょ」どちらも正しかったと。「ずしょ一式」を式典で寄贈していただいた青年代表に、「さあ学ぼうよ学んでゆこう」の大江中校訓を改めて教えていただいた。当日の夜、青年のお宅にもお詫びのお電話をさしあげました。「時流が決める真実を信じてはいけない、今の真実は仮の形だ」――先生の声が天から届いた、素晴らしい一日となった。

●平成29年広報おおえ 8月号より

オリンピックの話題がニュースになってきた。3年後とはいうけれど、直に関係しておられる方々には「明日」のことなのかもしれない。会場や警備、交通、宿泊、競技そのものを含めても、世界最大の祭典であるだけに、時間はいくらあっても足りない「今日の準備」に追われているという。暑さに負けず頑張っていただきますように、すがすがしい夢多い東京オリンピックの成功のために。

「オリンピックは勝つことではなく、参加すること」と、クーベルタンさんが言った、と学んだように思う。競技では、ほんの数人・チームが「勝つ」だけで、ほとんどの選手は負けてしまう。勝負は非情、多数を占める敗者に、オリンピックは勝つことではなく、「参加すること」だ、と語りたかったのであろうか。「何十年に一人の逸材」しか参加できないオリンピック、クーベルタンさんは、「国の代表としてあなたは多くの選手・チームに勝ってきたのではないですか、もう勝つことは二の次だ」と語りかけたかったのか……。

日常の生活にも、「勝つか負けるか」・「参加するか参加しないか」の場面も多く、時には喜びや楽しさが、はたまた苦しみや悩みが……。「参加しない」で手に入れる「想い」の類が多い世情、「傍観者には真の実感は感じとれまい」が、クーベルタン男爵の真意であったかどうか。アポロンの神よ、教えたまえ。

●平成29年広報おおえ 7月号より

いのしし=猪を見たことがない。映像に映る猪は一見ころころに見えて可愛いな、と思っていたし、猪突猛進という言葉もあり、「頑張りやさん」だ、と思ってきた。牡丹鍋もこれまたおいしい。「憎い奴だ」と思ったことはない。しか=鹿は修学旅行の奈良公園で初めて触れた。クラス毎の記念写真前景には、5、6頭の鹿も写っていて、写真屋さんが、シャッターを切る直前に、鹿せんべいをばらまいて撮った写真だ。子鹿のバンビは、映画では「めんこい素敵な動物」であった。くま=熊にまたがる金太郎、子どもたちと相撲をする熊の絵本もあって、熊は「友達以外の何者」でもなく、生き物は「みんな友達」だ、と思ってきた、今までは。

このごろ、人間が近づきすぎているからか、動物が人間の側までやってくるようになったためか、「鳥獣・昆虫・植物」が「有害」で、生活できないほどの被害が発生し、やむなく移住を迫られている集落もあるという。大江町でも猪が、丹精込めて作ったジャガイモ畑を掘り起し、全滅させた。外国からやってきた動植物も含めて、いまや「有害―鳥獣・昆虫・植物」だらけだ。昔の「絵本の世界」は頭から消えかかっている。昔は「みんな友達」だったのに……なんちゅうこった?

「地球温暖化」、「気候変動」の主因は「便利な生活」だという。被害者・加害者を同居させる現代人に、「我が罪は、我が前にあり」となす力があるか、否か。トランプ占いでもしてみるか、な。

●平成29年広報おおえ 6月号より

「繰り返し」が「記憶」を完璧なものにする……恩師から頂いた言葉だ。知識も動作も所作も「繰り返し」を続ければ、目をつぶっても、耳をふさいでも、自然にできるようになる……本当かな。

今年も田植えの季節がやってきた。田植え機に乗ってサー出発進行。並行直角に早苗の緑の行列を、まるで田んぼに描くようで、理屈よりも実感として、男の美学の実践で至福の世界とあいなる。機械に使われているのか、機械を使っているのか、主人公は誰か……少々の迷いはあるけれど。

1往復終了して3列目に入った時、なんと前後進はするが、苗がちっとも田んぼに植えられない。見れば、苗を送り植える部分が全く動いていない。朝の7時、頭は固い、故障だな、ベルトが切れた、歯車破損……完全にそう思った、思い込んだ。農機具屋から電話でご助言を、再度機械に乗ってみて、手順を追って確かめればなんと「植えつけ」のギアが「ずれ」ている。「ファジーじゃだめだよ、ギアは」と天の声。あーあ、慌てたな、5年目の田植え機械、5回だけの繰り返しで「完璧記憶」が達成されていなかったのか……。そういえば恩師は次の言葉も必ず言っていた、「13回繰り返しなさい、そうすれば忘れたくとも忘れられなくなる」と。残り8回あるが「完璧記憶」は可能かどうか。田植機械練習水田でもあれば、「完璧記憶」に近づこうが、そうもいくまい。「機械は人間が動かすもんだ」、機械屋さんに静かに、厳しく叱られた、と確信した。早朝ご助言ありがとうございました。

●平成29年広報おおえ 5月号より

柳川温泉に向かった。2つの新しい橋を過ぎて右に曲がり、次に左に曲がると目の高さに近い所に、月布川がよく見える。車を止めて「川の色」を見た。雪解けが、上流では進んでいないのか、茶色には見えない。お点前のお濃茶のような薄緑色だ。日差しのせいなのか、新芽の緑が溶けた色なのか、それとも目の錯覚か……、不思議な思いにかられた「川の色」であった。

色には匂いも香りもない。なのに身の回りにはさまざまな「色付け」が施され、無色透明にはほど遠い。色無しの衣食住はいかにも「ダサイ」ということであろうか。真っ白な大根のお漬物と、黄色いたくあん漬けのどちらがおいしそうであるか。赤い屋根と黒い屋根、白い車と黄色い車、茶色のザーサイと赤い福神漬け……、黒い福神漬けが、カレーライスに添えられたら不気味で食は進まない、に違いない。色で食べているわけではない、と言いたいところだけれど、「目は口ほどにものを言う」ことでもある。

「見ることは信じること」だという、だったら「聞くこと」は何なんだ。ちゃんと聞きなさいと言うことと、ちゃんと見なさいと言うことと、どちらの表現が日常生活で多いであろうか。「耳2つ・目2つ・口1つ」で、音と形と色の組み合わせコミュニケーションの複雑怪奇な現代社会、信じていいのは……?間違いないなー、先輩の言っていたあの言葉、「世の中を見るのに色めがねをかけてはいけない」。

日差しが強くなる季節、紫外線も気になる。「サングラス」着用のおすすめの季節ではある。