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最上川舟

最上川舟唄の誕生

最上川舟唄

「一県一川」として名高い山形県の母なる最上川が、町の東側を流れています。

最上川(240km)の流域は、県土の76%を占め、山形県の95%の人々に恵みと潤いを与えています。

その中流に位置する左沢(あてらざわ)は、江戸元禄以後、 酒田と米沢を結ぶ中継の川港として栄えてきました。

その舟運は、京文化など多くのものをもたらしました。

そして、左沢船着場のにぎわいが、山形県の代表的民謡「最上川舟唄」を生みました。

最上川舟唄

小鵜飼船で上流の置賜から運ばれた荷は左沢で積み替えられ、酒田までの下流部はひらた舟で運ばれるという、最上川舟運には欠かせない重要な船着場でした。河畔の百目木地区周辺には米沢藩の舟陣屋、米蔵、塩蔵などが置かれ、その賑わいは鉄道が敷き設され、陸上交通にとって変られる大正頃まで続きました 。

真の民謡伝承者

昭和の始めころ、左沢に渡辺国俊と後藤岩太郎という二人の風流な男がいました。

渡辺氏は、若い頃から詩や歌、童謡なども作った文学青年でした。

一時、県の統計課に勤務、その後県民謡協会を設立、初代事務局長に就任するといった根っからの民謡愛好家でした。

後藤氏の方は、もっぱら歌い手一筋。農業のかたわら、建設関係の仕事もしていたようですが、婚礼やお祭りなどにはひっぱりだこで、テノールの美声が大いに持てはやされました。

また、後藤氏は出しゃばる人ではなかったといいます。

遺稿によると民謡視聴団の町田嘉章先生が「この舟唄は昔からあったのか。」と言われた時に、たった一言「そうだ。」と答えただけでした。

「ただ一個の農民、野人の私が作ったなどと言ったところで、誰も認めてくれない。

誰がうたい出したとなくうたって、 うたい伝えていくのが本当の民謡の尊さではないでしょうか。」と・・・。

岩太郎、国俊の苦心

昭和11年、渡辺氏のもとにNHK仙台放送局から「最上川を下るという番組を企画したから、良い舟唄があったら紹介してほしい」という話が持ち込まれ、二人の苦労がはじまりました。

後藤氏らは、手記に次のように書き残しています。

後藤岩太郎

後藤岩太郎さん

この地方(左沢)でうたわれているのは、追分調に新内くずしのようなものが入っているので、最上川下りにはふさわしくない。」と、酒田通いの舟に乗り、舟唄の掛け声に精通していた後藤作太郎さんの掛け声と、山形市の船町から嫁いできて古いうたを知っていた菊池きくさんのうたをあわせて一本になった。

かくて、”夜中に目をさまして考えてみると、ヴォルガの舟唄を思い出したが、掛け声を少しなおして、唄の新内くずしの部分を除いて作ったらおもしろいと、いろいろうたい自信が出てきたが、最後にしっくりしない。

それで一升ビンを下げ作太郎さんと、いくども最上川を上下し、一週間ほどしてようやく自信がつき、渡辺氏を訪ね披露した。

うたはいいにしても歌詞が一つしかないので、渡辺氏の協力によって舟唄にあうように仕上げたのです。

(後藤岩太郎遺稿より)

渡辺国俊

渡辺国俊さん

舟唄の原曲は酒田追分だが、この元唄は徳川の末から明治の末まで酒田港にやってきた、北海道や新潟の船頭たちにより伝えられた松前や新潟の追分などで、それが酒田追分に変わった。

さらに最上川の船頭に唄われて、海の追分が川の追分へ、遊興座興の追分が労働民謡へと、曲調はもちろん、テンポ、歌詞、掛け声などまで非常な変化を見た。

(渡辺国俊「最上川舟唄小史」より)

このように最上川舟唄は、「追分節」を本唄の源流に、船頭たちのかけ声と合わせ作られました。緩急自在でダイナミックな曲調の最上川舟唄は、世界三大舟唄と称され、世界各地で演奏されています。

母なる最上川の流れが郷土を潤し、人々に愛されてきたように県を代表する民謡「最上川舟唄」は、誰もが親しみを込めて口ずさみ、これまでも、そしてこれからも伝えられていく ...。

正調 最上川舟唄 歌詞

世界三大舟唄

最上川舟唄

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ホフマンの船歌

喜歌劇『天国と地獄』で名高いオペレッタ王、オッフェンバック(1819~80)の作品。ドイツ・ロマン派の作家ホフマンの原作によって唯一の正歌劇を書いた。その作品が「ホフマン物語」である。3つの幕はそれぞれが主人公ホフマンの回想の場面で、第2幕はヴェニスの運河に臨む遊び女ジュリエッタの豪者な邸の場。窓の向こうには運河に浮かぶゴンドラが見え、歌劇ではここでジュリエッタとニクラウスの二重唱で歌われるのが名高い舟歌の名旋律であると言われている。

ボルガの舟歌

ロシアの民謡。作曲者不明。ボルガ川をさかのぼる舟の綱を引く人夫たちの歌で、「エイ=ヴフニェム」「アイダダ=アイダ」などの掛け声が主になっている。多くの編曲があり、今日一般に知られているものもロシアの名歌手シャリアビンが歌ったときの編曲と言われている。なお、この曲はグラズノフやジョルダーノらによって芸術音楽のなかにも用いられているようです。