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町長コラム

 

●平成29年広報おおえ 3月号より
 広い日本を針で突っつくようなピンポイントで大風、大雨、大雪、大地震の「激甚災害」が、列島を襲っている。予測できないということからか、ゲリラ豪雨などともいわれ、なんとも不気味だ。先日、山形気象台の台長さんがお越しになった。台長さんと町長で、「気象情報携帯電話即時通話」を可能にしておけば、被害を最小限にできるはずだと、町民にとっても、行政にとっても実にありがたい提案をお土産としたものであった。さっそく携帯番号の共有をさせていただいた。正しい知識や情報は、安全・安心な生活に不可欠で、特に災害発生時には重要だ。
 上空5千メートルにマイナス45度、冬型気圧配置……予報で大雪警報が出た。三日間細かな雪が大量に降って予報は的中した。雨雲・雪雲の流れが分かるような情報もあり、「天気予報」の精度はかなり高くなった。地球の上空5千メートルは、宇宙規模でみればほんの数ミリで、頭にマイナス45度の帽子をかぶるようなもの、マイナス45度の気温が作る雪は細かく、雪と雪の間に空気が入りにくく溶けにくくて、粘土みたいに粘着しやすい等々の「天気情報」もあった。情報通り、ビニールハウスの倒壊や樹木の枝折れなどの被害が出た。
 「天気予報」も「情報」も、読み方次第だ、と言う友人もいれば、自分の都合の良い方に「読み取る」ほうが苦しくなくていい、と言う友人もいて悩ましく、情報の「出し手」と「受け手」の共同作業――「出し手」の真意を伝えたい強い意志、「受け手」の正しく「読み取る力」――で成り立つ情報社会は、楽しくもあるが、危うさもある。「オオカミが出た」の昔話、「鰯(いわし)の頭と信心」の例え……万機公論に決すべし、とはいうけれど。

 

●平成29年広報おおえ 2月号より
 朝5時、テレビの画面に「東京日の出6時30分」の文字が見えたようだった。新幹線の車窓から日の出が見えるかもしれない。6時12分発の列車だ、猛烈な大雪風雪が予報されているので、早めに帰った方がいい。外は夜、まだまだ暗い。
 太陽は東から出る、なのに「車窓日の出観察」を神は忘れたのか、進行方向左側で、西側の風景を楽しむべしと、想定外指定席である。車内には40人ほど、東側の席には誰もいない。後ろの席も空席だ。リクライニングを最大まで押し下げ、「誰もいないから東に移ったら」とささやきが聞こえた瞬間、窓枠の真ん中にお月様が、まるで絵に描いたようなまん丸、白金色に輝いて、薄墨色の地平から紫色の透き通るような空に浮かんでいるではないか。東京駅から大宮を過ぎ、宇都宮、ほんの数分車窓から月は消えていたが、ずーっと上下左右に映し出された、これほど長い時間、月を眺めたことは今までない。うさぎは見えなかったが、両手を左右に伸ばした「とおせんぼ」の巨人が見えた。月にはもう来てはいけない、私が見えないような汚れた空にしてはいけない、水のきれいな、緑豊かな地球がうらやましい……。窓枠、近景、遠景、気候条件など、最高の「月見列車」、絶景に声無しだ。
 7時ごろ、窓ガラスがきらきらと、なんと右側の窓の外の燃えるような日の出を、鏡になって映し始めた。月と太陽の共演、舞台は黄金色と赤紫と薄墨色、うっすら積もった白い雪。「神は二物を与えない」ことはないなあ――カバンから飲み残しの清涼飲料水を取り出し、最初に右の窓、次に左の窓に向かって「カンパーイ」。月は徐々に薄い色になって、形は見えるのに光は失せた。光らせるものありて光るものあり。

 

●平成28年広報おおえ 12月号より
 地下鉄の扉が開いた。入り口には確かに若い男性が乗っていた。結構混んでいたので、中ほどまで進んで、吊革に手をかけた。正面の窓ガラスの赤い文字を見て、「しまった――」と赤面の至り。思わず先の入口の「根性ある男性」を目で追った。確かに男性がいる。平然と斜め方向に目をやりながら、穏やかな表情で「乗っていらっしゃる」ではないか。
 田舎でも、どこでも、日本ではトイレは確かに「男性」―「女性」の区分けがきちんとなされているが、バスや電車は、共用だ。男女共同参画時代を叫び、大学の寮生活も、昔のように「男子寮」―「女子寮」ではない時代、世界に名だたる大東京のバスや電車の一部には、女性専用車両があるようだ。ちなみになぜか、男性専用車両はない。
 「この電車は何時から何時まで、女性専用の電車です」窓ガラスに張りつけられた文言には確かにそう書いてある。「じゃあ、あの若き男性はいったい何者か」。「渡邉君、いいかい、迷ったときに、同じことをしている仲間を発見すれば、迷いは一瞬のうちに消えるもんだ、仲間発見は自己行動を正当化する」、昔先輩から聞いた言葉を思い出した。若き男性を仲間とするか否か。
 女性専用車両に乗ってしまったことに、むりやり当てはめようとは思わないが、「規則のあるなしにかかわらず、いつも紳士であれ」の実践を、ひょっとしたらあの若き男性は実行中なのかもしれない、次の駅で急いで降りてそう思ったりもした。入口のたった一人の男のために女性専用車両と判断できなかった愚かさは、木を見て森を見ず、部分で全体を決めつける弱い耳目によるのであろうが、さてさて目と耳をどうやって鍛えるか、悩みは多い。

 

●平成28年広報おおえ 11月号より
 どこに近寄っているか、何を引き寄せているか。海か、山か、川か……友人と話すといつも「近くに何があったか」という話題が多い。大きな魚を釣ったとか、マツタケを採ったとか、アユの友釣りが絶好調だとか、今と昔を交えた風土の話題には罪がなく、海人、山人、川人の競演となって楽しい時間となる。
 都会で暮らす友人には、海も、山も、川も遠くて、わざわざ出掛けなければ、海・山・川の香りは届かない。癒しの時間を友人に強く求めたいとは思わないが、あの人がどうだとか、この人がなんだとか、という話題はありがたくはない。「人」に関わる話題には、時として罪があり、耳だけではなく、目もふさいで、心まで閉じるようなこともある反面、他人の悪口は最高の酒の「つまみ」だという人も確かにおられるようで、「人」を語る楽しみからの解放もこれまた難しいようだ。
 「人」を語るか。「人以外」を語るか。語れるのは――自信を持って語ることができるのは、「身近にあること」には違いない。目元、耳元に遠近取り分けながら、丁寧に優しく、自分のそばまで引き寄せて語ることになる、「人」も「人以外」も。遠くのものを語りかけることが多くなったのは時代の波か、それとも遠くからしか語れない進化の発現であるか。「かかった魚を手元に引き寄せなければ、魚の正体は分からない、分からないものを語れる訳がない」と、「全国豊かな海づくり大会」で聞いた言葉の意味は大きい。

 

●平成28年広報おおえ 10月号より
 「こすずろ」は本当にやっかいなアブだ。車が好きなようで、窓を開けようものなら、わんさと入ってくる。夏の風物詩と思えば、と友人は大きく構えているけれど、山の中で、きれいな河の流れを聞きながら、梅干し茶で、できたての「ゆかりおにぎり」の楽しい時間は、クーラーを効かせた車の中で、ということになる。少々どころかかなり口惜しい。たかがアブ、されどアブだ。
 露天風呂に入った瞬間、顔の周りに2、3匹がグルグル、目の前は見えるけれど、頭の後ろやてっぺんは手で追っ払うしかない。こすずろもアタックできないほどのふさふさの分厚い髪は、もうない。たかがアブに核ミサイルか、オスプレイか、はたまた化学兵器か。「夏の友人=こすずろ=腰しろ=伊予白帯アブ」と一緒に名湯を楽しむ秘策はないか? その時、朝日岳の山のほうから確かに聞こえた、万物を大切にする山の守護神の声が。「あなたの今日のタオルは結構分厚いじゃございませんか。頭の周辺でアブがごちゃごちゃぶんぶんのようですが、ほっかむりしてみたらいかがでございますか。眉毛あたりから首元まですっぽりと『ほっかむり』をし、お湯の香りを楽しむように片手をゆっくりと顔の前で左右に動かしてみてください」効果抜群の極みだ。
 露天風呂、たかがアブだから、ほっかむりは通用した。人間社会で、常時ほっかむりは通用しない。宿題、課題、問題、ごちゃごちゃぶんぶんのない社会は正常ではない。いろいろあっていい。こすずろ相手のほっかむりを楽しみながら、一歩前にだ。

 

●平成28年広報おおえ 9月号より
 8月16日、花火大会が終わった次の朝、空気の乾きと冷たさに秋を感じた。灯籠が流れていた最上川の畔では、朝の5時半だというのに若い釣り人が3人。「おはようございます。釣れましたか、何が釣れますか」、「ばす、これから釣れると思うよ」、「餌は疑似餌ですか、どちらからですか」、竿を上げ糸を引き寄せ、人工の青虫のような物を見せてくれた、「山形市からです」。ばす、と聞いて一瞬、おっ、と戸惑った。ばすはブラックバスのバスに違いない。日本にはいなかった外国の魚。釣竿も短くて、糸もやや太いように見える。釣り人の服装も何となく蓑笠や麦わら帽子は似合わない洋風で、野球帽だ。静かな朝、昨夜の人と音と空の花火は、跡形もない。花火大会の本部席に向かった。途中、大きな分別の段ボールのごみ箱、周辺にごみは一つも落ちてはいない。道路にも、どこにも花火大会のごみは見えない。お越しになった方々、町民お一人お一人の「持ち帰りと後始末」が、きちんと実行されたのだろうと、空を仰いだ。終わり良ければ、すべて良し、とはいうけれど、始める時に「後始末」までをプログラムすることはなかなか難しい。
 8月16日8時40分、胸に「大江中」とプリントされたTシャツを着た生徒さんたちが、片付けに向かう町職員とボランティアの方々の仲間になっていた。生き生きとした笑顔に、朝の光がまぶしいほどだ。彼らがいるかぎり、花火大会はなくなることはない。ありがとうございました。本当にご苦労さまでした。
 虎は死して革を残し、花火は消えて人を残す。誰が言うたか、とまれ、6年後にやってくる水郷大江100回記念花火大会の夢は大きく、20号玉100連発と成るか、成らぬか……成らぬは人の成さぬなりけり。

 

●平成28年広報おおえ 8月号より
 中央公民館が完成した。「新築か、リフォームか」の検討や、設計過程での意見の集約などを含めると、工期は2カ年とはいえ、長い時間を要した。ある国では建築・建設の工事が、本当に必要なものであるかどうか、最低でも5年ほどの時間をかけて検討するという。今回の公民館建築は、ややそれに近いかもしれない。
 木を植える人には、一銭の利益も戻ってこない。下地を作って穴を掘り、1本1本丁寧に植えていく。時にはきつい傾斜地もあり、足元も悪い。苗木が独り立ちするまでの「育樹」も重労働なのに、びた一文も収入はない。40年、50年、100年後まで待たないと、植えた木は「お金」にはならないからだ。「植林」は、1時間、1日、2、3年で「売れるもの」を作る「労働」には程遠い。なぜ植えたか、なぜ植えるか。孫子を思う「無償の愛」と、故郷の山を生かす時代を超えた「高い理念」がなければできない人間業としか考えられない。
 「今だけの時間」を先人は生きてこなかった。次の時代に備えて生きてきていた。今回の中央公民館と図書館の「杉の大木」には、孫子を思い未来の夢のため、汗を流した大江町の先人の心意気の香りが含まれている。杉が立っていた「材木の吹越」の山に向かって、自信を持って宣言したい。ありがとうございました、植えて頂いた方々に感謝の気持ちを忘れずに、大切に使わせていただきます、さらに付け加えて、やや低い声で、「大江町は永久に不滅です」といったら、先人はどんな言葉を返してくれるだろうか。
 先人の 汗玉固まり 建つ図書館

 

●平成28年広報おおえ 7月号より
 昨年大江町でおこなった「全国山菜サミット」には、多くの県外の市町村からもご参加をいただいた。礼儀として、今年の「全国山菜サミット」にはぜひとも参加したいと思い、新潟県魚沼市大白川の「浅草山荘」で開かれた会に参加させていただいた。「山菜」を目の前に「食べ物」としてお客様に提供するだけでは、「山菜民宿」の営業には限界があって、長続きしない。お客の嗜好は、「種を蒔まいて、育てて、食べる」、「歩いて、見つけて、採取し、食べる」、「煮たり、焼いたり、漬けたり、調理したりして、食べる」など、「山菜と体験の組み合わせ」を求めているという、示唆にとんだ有意義な大会であった。
 次の日の「東京おおえ会」の総会に参加するため、長岡駅から夜の新幹線に乗った。2階建ての新幹線車両、指定された席は2階で、前から8番目、窓際。お客が、誰もいない。1、2分の停車時間、どなたか乗ってくるだろうか。列車は走り出した、車両を独り占めだ。少々不安になった、こんなことってあるのかな、初体験の緊張と不安と興奮……誰にも遠慮はいらない、歌でも歌うか。
 何十年も前、蒸気機関車で、左沢駅から上野に向かった多くの大江町出身の方々がおられた。列車は「あの上野駅」に向かっている。大声で、上野に向かって、「学生服を着たあの頃のあの方々」を窓に映しながら、関口義明作詞・荒井英一作曲の「ああ上野駅」を歌いまくった。
 「新しい列車」に「古い話」は、あまりにも「ミスマッチ」か。

 

●平成28年広報おおえ 6月号より
 「動き」を秒単位で切り取って映像にした「スローモーション」が、テレビや写真で紹介されるが、「動き」には、驚くほどの美しさがある。オリンピックの体操競技の選手の「動き」は、声も出ないほどで、神業に近い。よくぞここまで動けるものだと思う。動物や自動車や機械の動きは日常よく目に入るが、植物の「動き」は、種をまいて大きくなって花が咲く……というように「スローモーション」にさえ程遠く、ましてや千数百年の「松保の大杉」の「動き」を切り取ることは難しい。今ある「姿」を見ているにすぎない。
 先日、東京で設計士として活躍している方と、「わらび採り」をした。誰もいない山の中、40年ぶりの再会、うぐいすの初鳴き、10年ほど前にがんで亡くなった北海道の友人が送ってくれた「えぞ山桜」が真っ赤で満開、空を見れば抜けるような青さ……久しぶりに童心に帰った。
 真っすぐ、空に向かって、「きょうつけー」をするようにわらびが立っている。若いわらびは、背中を丸め、頭を地面にこすりつけ、背中の上の邪魔者をかいくぐり、邪魔がなくなった瞬間から一気に、「きょうつけー」なのだ、と設計士が解説する。竹の子は先端を研げて、土を割りにょきにょきと出てくるのに、わらびは優しく柔らかに「他」を傷めないで見事なものだ、とも言う。わらびの「スローモーション」を構造力学で解いた説明にびっくりしながら、人間社会学を学んだ気になった。「わらび」のたまわく、「柔よく剛を制し、はたまたさわらぬ神にたたりなし」と。

 

●平成28年広報おおえ 5月号より
 
一粒の雨の重さや大きさはどれほどなのだろうか、雪は形が見えるけれど雨は見えない。「百川衆沢尽(ことごと)く一大江に……」が大江町名由来の故事だと聞くけれど、川も沢も天から落ちてくる「雨」なかりせば、流れ落ちることはない。一滴の雨には、土に入り込むもの、表土を走るもの、色々ではあろうが、鉛筆一本ほどの流れから小川になって沢になり、川と合わさって海にたどり着くのであろう。途中で、天日にさらされ天に昇るものもあるであろうし、「一粒の雨」が大海にゴールできるのは見事というべきか、それにしても確率はどれくらいなのであろうか。日本海の海に向かって、「おーい、大江町生まれの一粒の雨ちゃん、どこにいるか教えてくれー」。海は広くて大きい。
 海に届くまで、届いてからも、「一粒の雨ちゃん」には「合流」の二文字の試練が待ち構えている。「おまえは誰だ。どっから来たんだ。山の香りだな……」混ざり合い、溶け合いながら、流れが急でも緩やかでも、数十メートルも落下する滝でさえ、滝壺ではまた元のように、最上川や日本海のように、見事な集団形成を果たしてしまう。実に「さらさらと水の流れるように」だ。
 識者は教えている。「大根は真っ二つに切れるけど、水は切れない。民心また同じ、『関心』と『方法』を完全に同一化できない。『合流』の便法こそ、民主主義の原義であろう」と。「一粒の雨ちゃん」から学ぶこともまた多い。

 

●平成28年広報おおえ 4月号より
 
都会に住んでいる先輩で現役のお医者さんがわが家に来た。「今も昔も」から「今からこれから」まで、話題の尽きない、楽しい内容のある時間を頂いて、気分もいい。「自分で育てた野菜だ」、と自慢もしたくて、小屋から大きな段ボールの空き箱を持ってきて、先輩の前に置いた。JRの列車で来た先輩、3時間の長旅で、重い手荷物は迷惑千万だが、大根、里芋、ネギ、お米、くきたち菜……と自慢の種は一杯だ。「いらない」、笑いながら、さらにもう1回「いらない」、と先輩が言っている。自慢のしようがなくなりかけたころ、「ナイロン袋、大きなナイロン袋がいい。持って帰りたい」、と言う。宅配便の空き箱は要らないが、「ナイロン袋」につっこんで、かついで持って列車に乗って帰りたい、と言っている……先輩の「非常識」を理解するのには少々の時間が必要であった。結婚式に招待されたついでに、わが家によった先輩は、着替えも含めてバッグが2つもある、「大きな籾袋のナイロン袋」との相性はいかにも悪い。
 かなりきついかな、負担が重いかな、少々無理かな……日常の中で感じる「体と心」の動かし方のバロメーター、優しく、楽々と、安易に、軽微に……と過ごしがちな「日常性」に、ときおりちょこっと重く手厳しい「非日常性」を取り込みたい――今日は筋力トレーニングのための「ナイロン袋」なのだ、と先輩は涼しげに、またも笑いながら、のたもうた。山形駅で、山高帽子、チロリアンシューズ、両手にバッグ、肩に担いだ「ナイロン袋」、どう見てもチャップリンを超えている。形であるか、機能であるか。先輩は背中でそう教えながら、列車に消えた。アスタ マーニャ(また今度ね)

 

 


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