トップ  >  町長の部屋  >  町長コラム 平成21年度

                           町長コラム

●平成22年広報おおえ 3月号より
 除雪車の黄色がぼやけて見えて、白い幕の中を進んでゆく。たて・よこ・ななめ・あらゆる方向、吹きつける雪はまるで傍若無人、帯となり幕となって、手のつけようのない生き物のようだ。台風並の低気圧とはいえ、新しい年を迎える朝の「吹雪」は恐ろしいほど激しいものであった。
 空気中の「ちり」や「ほこり」に「水分」がくっついて、雪が誕生する、といつか聞いたように思う。風と水と気温…の組み合わせで、「自然」が示す「変化」は、時に「手ごわく」、時には「おもむき」もある。「ちり」や「ほこり」の代わりに、うさぎの毛を使う、世界で初めて人口雪が、中谷宇吉郎博士によって作られた、とも聞いた。「手ごわい雪」を「おもむきのある雪」に作りかえるのは、無理だろうか。
 大空で生まれ、空中サーカスのように激しく動き乱舞した雪も、地面に着けばじぃーと動けず重なり合って不自由そのもの、ただただ溶かされるのを待つだけだ。雪の自由な時間は、人間の不自由な時間だ。
 「雪はなんにも言わないけれど、雪の気持ちが良く分かる…」。木の枝に一個残った「真っ赤なりんご」に「白い雪」、りんごも何も言わない。最高の組み合わせを、無言とは。

●平成22年広報おおえ 2月号より
 座談会で話が終わるころ、ある御婦人から質問を受けた。「外国語、片仮名英語をあんまり使わないで欲しい。新聞・テレビにでてくるCOP15ってなんでしょうか」と。そういえば鳩山総理大臣がCO2の25パーセント削減を国連演説に盛り込み喝采を受けた…、一時ニュースはCOP15だらけだった。
 知らなかったので、調べてみた。CONFERENCE OF PARTY の頭文字をとったCOPだという。日本語に訳して「国連気候変動枠組み第15回締約国会議」と書いてあった。
 知りたいと思わなければそのまんま。知りたいと思えば聞いたり読んだり、調べたりする。気分もわく。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。よくぞ聞いてくれました。もし貴方がお聞きにならなかったら…。聞かされ聞いて、二人で分かり、おかげでお互いの世界が少し広がるような、素晴らしい友人を得た気分は最高です。この場を借りて御礼を申し上げます。ありがとう、ますますお元気で。
 ちなみに、ハーゲンダッツのハーゲンは、コペンハーゲンのハーゲンに違いはないと思いますが。

●平成21年広報おおえ 12月号より
 新幹線や電車で、人の声を聞くことが少なくなった。無言のままの乗客だけで、目的地に着くような感じだ。列車はまるで「箱型の人間運搬車」、たまに、小さい子供連れの家族の会話を聞くと、ほっとする。
 「旅は道連れ、世は情け」どころではない。「旅は無言で、余は孤立」、殿様旅行になったのは何時のころからであろうか。
 読書の邪魔、睡眠妨害、プライバシー侵害等々、しゃべれない理由が多いのかもしれないが、記者の中で様々な会話を楽しんだことが懐かしい。会話の糸口は「ふるさと」のことが多かった。山や川、生き物や食べ物、「ふるさと」で働く親や友人の「自慢話」、話が弾んで、身の上相談的な踏み込んだ会話もあった。一方的に話すのではなく、「聞いたり話したり」のゆったりした時間であった。
 山形からニューヨークまでとはいかなくても、せめて左沢から寒河江までの間、出来れば「長い人生の旅」にも、「旅は道連れ、世は情け」が欲しい。
 季節は寒い非情な冬を迎える。

●平成21年広報おおえ 11月号より
 お年寄りにお会いした。89歳で心身健康そのもの。話し方も長い人生経験を感じさせ、柔らかい。一本筋が通った味もあり聞き飽きない。「わけのない人生などないもなー」。外を見ると、木の葉は半分近く落ちていて、芸術・読書・感傷の秋の入り、すこしばかり考え込んでしまうような言葉であった。
 「わけあり人生」、思えば昨日も今日も、朝起きて夜寝るまで「思いどおり」に出来たことが少ない。長い一生のあいだにはなおさらのこと、「思いどおり」に出来なかったことのほうが多いのかもしれない。出来なかったのには、すべてわけがある。言い訳を、他人に求めず自分に求め、「明日は出来る」と思え、と話すお年寄りの目が光っていた。
 様々な「物」にも「わけあり品」がある。「わけあり品」にはたしかに「わけがある」が、許してあげたいし、許すべき時代だ、と思う。雹にやられた(でこぼこ)な果物、凸凹を(えくぼ)と見たてた人に脱帽だ。「わけあり人間」社会だからこそ、健全で明るい社会なのだ。お年寄りの方々は、本当に、えらい。

●平成21年広報おおえ 10月号より
 12月13日に、NHKの「のど自慢」がやって来る。町の体育センターで、ゲストとして前川清さんと水森かおりさんを迎えて、絶唱と笑いの「歌の祭典」だ。どんなふうに大江町の紹介がなされるか、今からワクワクドキドキだ。町民各位の町制50周年を思ってのご参集を期待したい。
 「心に太陽をくちびるに歌を」、歌は世に連れ世は歌に連れ、歌にはすごい力があるように思う。励ます力、なぐさめる力、いやす力…。まるで、歌がなければ生きていけないような強大な力だ。「音楽」・「歌詞の意味」・「歌い手の物語」と、「自分自身の人生」とを重ね合わせ、溶かし合うようなNHKの「のど自慢」は、放送番組の最高傑作だ。「歌い手」と「聞き手」の間に、イヤミがなく、自然体で、ふだん着の生活の香りもあり、許し、許され、支え、支えられ、励まし、励まされるすばらしい日曜日昼の時間、あっという間の1時間だ、と思う。
 カナリヤは歌を忘れるが、日本人は歌を忘れない。歌の心を忘れはしない。

●平成21年広報おおえ 9月号より
 さくらんぼの季節が過ぎた、と思ったら、もう「もも・りんご」。台風も来て、季節はすっかり秋だ。「雹=ひょう」の被害もあったけど、人の力か自然の恵みで、大江町の「実り」は、稲穂も黄色に順調、垣根を登る「あけび」の色も紫色で、すばらしい「実りの秋」間違いなしだ。
 赤い美味しいさくらんぼの「花」の咲くころ、日本中で「みつばち」不足が話題になった。「おしべ」と「めしべ」のお友だち、「みつばち」がいなければ「実」はならない。さくらんぼの清楚な白い花群は、友人である昆虫への心からの贈り物、花束なのに違いない。
 昆虫や雨や風などの「友だち」の力を借りて、花は豊かな実りを手に入れている。虫媒花、雨媒花、風媒花…、すべての花に「実」が付くのには、「友だち力」が必要なのだ。「栗やあけび」は語らない。昆虫も雨も風も、話さないし教えもしない。日本社会の「友だち力」とはいったい何かを。
 山から町から聞こえてくる歌、「ひとりぼっちにしないでおくれ」歌うは誰ぞ。

●平成21年広報おおえ 8月号より
 「おまえ、あだま洗たながぁー」、おばあちゃんの大きな声が露天風呂じゅうに響いた。洗うことが出来るのは、頭の皮と髪。皮のない頭はないが、髪のない頭はある。友人は、シャンプーは頭髪のためで、頭皮のためではないというが、「頭皮用シャンプー」なるものをいまだに見聞きしたことがない。「頭を洗う」のは、頭の何を洗うのか―不解。
 「水」で色々なものを洗い続けている私たち、暑い夕方の「さーっ」と降る夕立には身も心も洗われる時もあるが、被害をもたらすような「豪雨」では心は洗われまい。
 洗いざらしのシャツはサラサラと手が通り、太陽の香りいっぱいで本当に気持ちがいい。入道雲、青い空、高い気温、真っ白な洗濯物。夏は洗濯の季節、洗う季節だ。
 「手を洗う」「顔を洗う」「足を洗う」「首を洗う」…。洗いたいもの、洗わなくともいいもの、洗わなければいけないもの、「洗濯の選択」が問われている。山奥のあるお寺の木立の中の苔の石、太い二文字で「洗心」。「あらう こころ」か「あらえ こころ」か。

●平成21年広報おおえ 7月号より
 ある鳥や動物は、道具を使って餌をとるという。くちばしに爪楊枝のような木の枝を差し込んで、中の虫をほじくり出す。「進化」とはいえ、鳥の器用さは、恐ろしくもある。
 「やかん」の蓋が蒸気でカタコトカタコト動くのを観て、蒸気機関車が発明されたという。「水」と「火」と「鉄の道具」が、世界中の国を走り回っていた時代は、たったの四十年前。木から石炭、石炭から石油、石油から原子力へと「火の元」も大きく変わった。「人間」と「道具」の関わりは止むことを知らない。
 どこの国から来た石炭か、ポーと汽笛を鳴らし今年も蒸気機関車が左沢線を走った。近代は、「火」の使い方次第で豊かさや幸せが決まってしまう。日本には「火の元」が少なく、外国頼りの豊かさや幸せだ。
 「水」と「火」と「空気」と「道具」の使い方が試されている日本。鳥や動物までもが「火遊び」を始めるとは思えないが、「火の元」用心は間違いあるまい。

●平成21年広報おおえ 6月号より
 雨が降らない。野山も畑も、渇きにあえいでいるようなこの頃の雨なし天気。「想定外」で、目に見えない激しい「気象変化」を思わせ、気持ちが悪い。
 雨が恋しい。心まで渇いてしまう。木々も葉っぱも、身をよじって我慢の毎日、しとしと、ゆっくり三日間ぐらい、地球の心底までしみ込むような雨よ降れ、降ってください。
 明日の天気次第で果物の値段が決まってしまい、雪の降りようでガソリンの輸送代が違う。「天気」が「経済」とくっついて、今や、「株」と「天気」、天気予報が「お金」になる時代になっている。もしも、百発百中の予報官になったら、億万長者間違いなしだ。天気は本当にきままわがままでわからない。だから「雨乞い」のお祈りとなろう。
 ちょうど今、六月四日三時二十八分。これを書いていて、西の空を見ると、にわかに黒い雲、雨だ。書き上げた内容が、まるで降った雨水に流されるような「いじわる天気」。あーあ、本当に「天気」は「天気」。だけど今回だけは勘弁だ、頼むからもっともっと降ってくれ。

●平成21年広報おおえ 5月号より
 「私は、山が大好きです。だけど字が読めないと困ります。」美しい春の山々に囲まれての学校帰り、明日の宿題を思いながら、この詩を詠んだのであろうか。山遊びと学校生活の楽しさを厳しく比べたとは思えないが、意味深い。好きなことを自由気ままにできる時間は、面白くて楽しい。窮屈な義務感だけの時間は、苦痛そのものだ。
 小学校の一年生、教室に入って椅子に座り、先生のお話を聞く。話す方も聞く方も、慣れるまでは大変だ。左沢小の入学式で、二年生が歓迎の合唱と楽器演奏と側転の演技を披露してくれた。大きな声で、はきはきと、整列も立派で、満点の出来であった。学校生活の一年間で、こんなに見事に成長している。家庭と学校と地域社会との頑張りの結果だ。
 桜の花の陰から一年生の明るい声が聞こえてくる。思えば、数年前、数十年前、誰でもが一年生であった。「私たちは読み書きできるようになりました。そして山も川も大好きです。」真っ白な雪を載せた朝日岳の山がまぶしい。

●平成21年広報おおえ 4月号より
 「サニーレタス」を去年の八月にまいた。葉っぱの先が赤くちぢれて、緑の柔らかい「サラダ野菜」だ。山形の伝統的な「青菜」と比べれば、弱々しく軟弱だ。「ざまーみろ、舶来のヘナヘナ野菜に、鼈甲色の青菜漬けの、この日本の野菜が負けてたまるか」と、サラダ好みの若者の側で「青菜漬け」を食べながら講釈したこともある。「サニーレタス」よ、君は越冬できるか。
 雪が融けた畑に半年ぶりに出かけた。「青菜」はいつものように雪の下でじーっと我慢、少しだけ背丈を伸ばすように頭を起こしている。びっくりしたことには、あの「サニーレタス」も、地面に張り付いて活き活きと、真ん中の芽は太陽に向かって少しだけ伸びかかっている。
 「やまと魂」の「青菜」も、「開拓者魂」の「レタス」も、共に冬を乗り切った。花を咲かせ、実を結ぼうと生きている。
 「一瞬の見かけ」で、「ああだ、こうだ」と決めてしまった「大人」を、「サニーレタス」は、葉っぱをよじって、声も出さず、笑いをこらえ、じっと見ている。
 自分の顔が赤くなった。 




 

 

 


翻訳